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輪るピングドラムをいまさら

一度だけ、どこかでふっと見たきりでしたが、思うところあって、このアニメをがっつり見てみました。
まどかマギカのようなものかな、と勝手に思っていましたが、全然方向性が違うものでしたね。
でも、これはこれで非常に良かったと思います。





まず、これは当然言及されるべきですが、「家族」というテーマのこうした描き方は初めて見ました。
アニメに限らず、今の日本で「家族」というものは無条件で「善いもの」として描かれることが多いはずです。
どんな苦しみがあっても、無償の愛があればなんとかなるさ、実の親子は無条件で善いものだ、と。

ところがこのアニメではその前提条件を中盤までことごとくひっくり返してきます。
苹果の親は、桃果のことをいつまでも引きずり、それで不和となり離婚する。
苹果は自分が「桃果」になれば不和が解消されると、自分に重い責任を課す。
自分が自分として愛されなかったことを知る。
多蕗は、才能がない自分が愛されないことを知り、弟が自分を追い抜く前にかわいそうな自分を生み出すため、指をダメにする。
それでも結局は愛されず、こどもブロイラーに行くことになる。
ゆりは、美しくない自分は愛されないのだと父親から告げられ、愛されるために虐待を受け入れる。
そして、陽毬はそもそも親から捨てられ、冠葉は親に死なれ、晶馬は親が多くの人を殺してしまう。

私が思ったのは、これは家族の負の面であり、「家族の呪縛」なのでしょう。
無条件で愛することができない親たち、それでも愛されようとする子供たち。
これらが重なり合って、悲劇を生んでいるのではないかと思ってしまいます。

そんな中で、死人でありながら彼らに深く関わり、心を救ってきたのが「桃果」という人物。
作中での描かれ方はまるで無償の愛を分け与える神のようであり、実際、彼女が持つ力も神に匹敵します。
彼女が言うのは、「私はあなたのことが好きだから、だから、私のために生きて」。
後々、苹果・多蕗・ゆりを縛り付けることになる言葉ではありますが、
少なくとも彼らの親と異なって、条件のない好意であり、愛を表す言葉なのだと感じました。

そして、陽毬を救った晶馬、晶馬を救った冠葉、冠葉を救った陽毬も、彼らの中で輪になって無償の愛を捧げています。

「家族の呪縛」があってどうやって生きていくのか、という問いに対して、
彼らのこうした愛が必要なのだと伝えようとしているのではないかな、と思うのです。
多蕗「僕らは元々失っていて、でも愛されているの一言で救われる」と言っていたり、
陽毬が「罪は分け合うものなんだよ」と言っているように。
たびたび登場する林檎が「原罪」を示すように、彼らにとって生きることは罰なのでしょう。
でも、それでも、人は愛し合って生きていくべきなのだ――
このアニメはそうしたメッセージを発しているように思います。

「何者にもなれないお前たち」という言葉が何度も語られますね。
そして、こどもブロイラー。
これも現代社会の表象であるように見えます。
努力しても必ずしも報われない世界。
今までの生き方では先が閉ざされている。
でも、どうやって「何者」になるのか、ということはこのアニメでは語られません。
その代わりに語られる言葉が「生存戦略」です。
どうやって生き延びるかが、むしろ語られるべきなのだということなのでしょう。
それが先ほど述べたような、「愛」なのではないのでしょうか?


愛と恋とか、この話では繰り返し語られる言葉ですが、
こうした負の側面も映し出すからこそ、光る部分もあるんですね。

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プロフィール

蛮天丸

Author:蛮天丸
物書き。
東方プロジェクトの二次創作小説を中心に、
好きなものを好きなように書いています。
最近は秘封がお好き。
秘封処女膜合同の主犯(siroito.web.fc2.com/maidenhead/)だけど、処女じゃないよ!
アイコンは一条さんからお借りしました。

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